
この顔を、覚えておいてください。丸い輪郭。後退した生え際。太い眉。細い口。特別に恐ろしい顔ではありません。けれど――もし今夜、夢の中にこの男が立っていたら。あなたは、「前にも会ったことがある」と思うでしょうか。

いや待って。そういうこと言われてから見るの嫌なんだけど。

もう見てしまいました。

最悪だ。
世界中の人間が「同じ男」を夢に見る
2000年代後半。
インターネット上に、一枚の奇妙な似顔絵が現れました。
その上には、大きな文字でこう書かれていました。
EVER DREAM THIS MAN?
――「この男を夢で見たことがありますか?」
そして、ある奇妙な話が語られ始めます。
発端とされたのは、2006年1月のニューヨーク。
ある著名な精神科医のもとを訪れた女性患者が、「何度も夢に現れる男がいる」と話したというのです。
女性はその男に現実で会ったことがありません。
それでも夢の中では何度も現れ、ときには彼女の私生活について助言までしてきた。
そこで女性は、男の顔を紙に描きました。
精神科医はその絵を机の上に置いていました。
数日後。
別の患者がその絵を見ます。
そして言いました。
「この男を知っている」
ただし、現実で会ったのではありません。
自分の夢にも、同じ男が現れる。
そう答えたというのです。
一人ではなかった
精神科医は不思議に思い、その似顔絵を他の医師たちへ送った。
すると数か月のうちに、さらに複数の患者が同じ顔を認識した。
彼らにも直接のつながりはない。
住んでいる場所も違う。
それなのに、夢の中に同じ顔の男が現れる。
人々は彼を、「THIS MAN(ディス・マン)」と呼び始めます。
そして専用サイト「ThisMan.org」には、さらに大きな数字が掲げられました。
ロサンゼルス。ベルリン。サンパウロ。テヘラン。北京。ローマ。バルセロナ。パリ。モスクワ。ニューデリー。
世界中から、「私もこの男を夢で見た」という証言が集まっているというのです。
サイトでは、その人数を8,000人と掲げています。

いやいや。8,000人が同じ顔を見るなんてある?

普通に考えれば、かなり奇妙ですね。

しかも知らない人なんでしょ?

――という話でした。

……「でした」?
夢に現れる男は何をするのか
This Manの面白いところは、「同じ男が出てくる」だけではありませんでした。
サイトには、夢の中で彼を見たという人々の体験談まで掲載されていきます。
ただ立っている。
自分を見ている。
話しかけてくる。
人生について助言する。
恐怖を感じる人もいれば、逆に安心感を覚える人もいる。
同じ顔なのに、夢の内容はまるで違う。
そのため、This Manの正体について、いくつもの説が生まれました。
「人間の集合的無意識なのではないか」
最もそれらしい説明の一つとして語られたのが、心理学的な説でした。
人間には、文化や個人を超えて共通するイメージが存在するのではないか。
This Manの顔は、そうした人間の深層心理に存在する何かが、夢の中で人物として現れたものではないか。
あるいは、まったく別の可能性。
一度This Manの顔を見た人が、本人も意識しないまま記憶してしまう。
そして後日、その顔が夢に現れる。
目覚めた本人は、「初めて見た男を夢で見た」と思っている。
しかし実際には、以前インターネットや街中で見た顔を忘れていただけ。
この説明なら、少なくとも超常現象を持ち出す必要はありません。
ところがネットでは、もっと奇妙な説も生まれていきます。
夢から夢へ移動している
This Manは、実在する人間ではない。
夢の中だけに存在する人間なのではないか。
ある人間の夢から、別の人間の夢へ。
さらに別の人間へ。
まるで部屋を移動するように、人間の夢を渡り歩いている。
そんな説です。
ほかにも、神。霊的存在。人類共通の記憶。未来の人間。あるいは、夢を見る人間そのものが作り出した存在。
さまざまな説明が生まれました。
しかし、どの説にも決定的な証拠はありません。
そもそも――もっと根本的な部分に、問題がありました。
最初の「精神科医」は誰だったのか
話を最初まで戻してみます。
2006年。ニューヨーク。著名な精神科医。夢に男が現れる女性患者。別の患者も同じ男を知っていた。
ここからすべてが始まりました。
では、その精神科医は誰なのでしょうか。
患者は誰なのか。
どこの病院なのか。
診療記録は存在するのか。
世界中で同じ男を見たという人々を、誰がどのように確認したのか。
調べていくと、物語を裏付ける一次資料が出てきません。
代わりに浮かんできたのが、一人のイタリア人でした。
アンドレア・ナテッラ
その人物の名前は、アンドレア・ナテッラ(Andrea Natella)。
イタリアの社会学者・マーケターで、ThisMan.orgを立ち上げた人物です。
2009年には、彼と協力したアーティストのエヴァ&フランコ・マッテス(Eva & Franco Mattes)が、アメリカ各地にThis Manのポスターを大量に貼っています。
ニューヨーク。ロサンゼルス。サンフランシスコ。メンフィス。ニューオーリンズ。
そこには、あの顔とともに、「EVER DREAM THIS MAN?」と書かれていました。
つまり、人々が「夢で見る」と噂していた顔そのものが、現実世界でも大量に拡散されていたのです。

あれ? それじゃ順番逆じゃない?

そこが重要です。

「みんなが夢で見るから顔が広まった」んじゃなくて……

顔を広めた結果、「夢で見た」という物語まで広がっていった可能性がある。
This Manは作られた都市伝説だった
This Manについて調査が進むと、ThisMan.orgとナテッラのマーケティング活動との関係が明らかになっていきました。
当時からネット上では、「これはゲリラマーケティングではないか」と疑われています。
そして後には、This Manの物語そのものが意図的に作られたプロジェクトだったことが明らかになります。
VICEも2015年、一度This Manを実在する現象のように紹介したあと記事を訂正し、精神科医の物語や夢のデータベースを含め、This Manの出発点そのものが作られたものだったと説明しています。
つまり、世界中の人間が偶然、同じ正体不明の男を夢に見始めた――という証拠はありません。

じゃあ終了じゃん。作り話だったんでしょ?

事件としてなら、そうでしょう。ですが、This Manが面白いのはここからです。
嘘だと分かっても、消えなかった
普通なら、都市伝説は「作り話でした」と判明すれば弱くなります。
This Manは違いました。
顔そのものが、インターネットから消えなかった。
画像掲示板。SNS。動画。ゲーム。漫画。映画。音楽。パロディ。
This Manの顔は、元の企画から切り離され、独立したネット文化になっていきます。
企画に参加したエヴァ&フランコ・マッテス自身も、This Manが世界的に拡散し、映画・テレビ・ゲーム・音楽など多数の作品へ入り込んでいった経緯を記録しています。
そして現在も、元祖ThisMan.orgは存在しています。
そこには今も、「世界中で何百人もの人々が毎晩この顔を夢に見る」という世界観が、そのまま残されています。
なぜ、あの顔は怖いのか
This Manの顔を、もう一度思い出してみてください。
怪物ではありません。
牙もない。血もない。目が真っ黒なわけでもない。
ただの、少し特徴的な男性の顔です。
だからこそ、妙に現実味があります。
駅ですれ違ったかもしれない。
昔の先生だったかもしれない。
どこかの広告で見たかもしれない。
でも、どこで見たのか思い出せない。
「知らない顔」ではなく、「知っている気がする顔」。
This Manという都市伝説は、その曖昧な感覚を非常にうまく利用していました。
「見たことがある」が作られる
ここで少し嫌な想像をしてみます。
この記事を読む前、あなたはThis Manを知りませんでした。
しかし今は、顔を知っている。
名前も知っている。
「世界中の人が夢で見る男」という話まで知っている。
今日ではなくてもいい。
半年後。一年後。
夢の中に、太い眉と後退した生え際を持つ男が現れたとします。
目が覚めたあなたは、どこでその顔を見たのか思い出せない。
そして検索する。
そこで、あの画像を見つける。
「これだ」
と思うかもしれません。

いや、それこの記事のせいじゃん。

そうですね。

じゃあ見せちゃダメだっただろ。

しかし、This Manという物語そのものが、ほぼ同じ構造で広がったのだとしたら?
作り話が「体験」に変わる瞬間
This Manには、幽霊も殺人鬼も必要ありませんでした。
必要だったのは、一枚の顔。
そして、「この男を夢で見た人が世界中にいる」という一文だけです。
それを読んだ人間が顔を見る。
記憶する。
忘れる。
いつか夢に出る。
そして、「自分も見た」と語る。
もちろん、個々の「見た」という体験まで嘘だと断定することはできません。
むしろ、本当に夢に見た人もいるでしょう。
しかしそれは、最初の物語が事実だったことを意味しません。
ここに、This Manの最も奇妙な部分があります。
作られた都市伝説を知ったことによって、後から本当にその都市伝説を「体験する人」が生まれ得る。
嘘から始まった話が、人間の記憶と夢を経由して、本人にとっては本物の体験になる。
インターネットが作った怪異
昔の怪談は、「友達の友達が体験した」という形で広がりました。
This Manは、それをインターネットで行いました。
誰かが画像を見る。
別の場所へ貼る。
誰かが怖がる。
誰かが夢を見る。
誰かが体験談を書く。
それを読んだ別の人が、さらに顔を覚える。
そしてまた、夢を見る人が現れる。
最初に怪異は存在しなかった。
それでも、怪異の情報だけが自己増殖していった。
だからThis Manは、単なる「嘘でした」で片付けるには、少し面白すぎる存在です。

つまり、This Man自体はいない。

少なくとも、世界中の夢を渡り歩く正体不明の男性が実在する証拠はありません。

でも今、俺は顔を覚えちゃった。

はい。

……今日夢に出てきたらどうすんの。

そのときは、一つだけ覚えておいてください。あなたがThis Manを知ったのは、夢の中ではありません。この記録を読んだからです。ただし――夢の中のあなたが、それを覚えているかどうかは分かりません。
世界中の人間が、同じ男を夢に見た。
その話は、作られたものでした。
けれど、その話を世界中の人間が知ったことで、今では本当に、同じ男を夢に見るための条件だけが整ってしまった。
「この男を夢で見たことがありますか?」
もし答えがまだ「いいえ」なら。
今夜からは、少しだけ答えにくくなるかもしれません。
出典・参考
- ThisMan.org ― This Manのオリジナルサイトおよび掲載された設定・証言
- Eva & Franco Mattes ― 「This Man」プロジェクト記録
- VICE ― This Manに関する検証・訂正記事
※「世界中の人々が同一人物を夢に見た」という物語は、This Manプロジェクト上で提示された設定です。実際に世界規模で同一人物の夢が独立して確認されたことを示す科学的証拠は確認されていません。本記事では、都市伝説として語られた内容と、その成立過程を区別して記載しています。



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