
そうめんさん。昔のテレビで、放送が突然途切れることは珍しくなかったそうです。

砂嵐になったりするやつ?

ええ。ただ、そのあとに知らない映像が始まったとしたら?

……放送事故?

そう思いますよね。
2007年。
インターネット上に、奇妙な映像が現れました。
それは、あるテレビ放送が何者かに乗っ取られた瞬間を記録した映像だと説明されていました。
場所はアメリカ・ワイオミング州。
後にその映像は、
The Wyoming Incident(ザ・ワイオミング・インシデント/ワイオミング事件)
と呼ばれるようになります。
「実際に起きた電波ジャック」
ネット上で語られた“事件”は、こうです。
ワイオミング州の小さな地域で放送されていたテレビ番組が、突然、何者かに乗っ取られた。
普通の放送が途切れる。
画面が乱れる。
そして表示されたのが、
WE PRESENT A SPECIAL PRESENTATION
「特別番組をお送りします」
という文字。
しかし、始まったものは番組と呼べるようなものではありませんでした。
黒い画面。
奇妙な数字。
不穏な音。
そして、文章が表示される。
YOU WILL SEE SUCH PRETTY THINGS
「あなたは、とても美しいものを見ることになる」
何を意味しているのか分からない。
やがて画面には、人間の頭部のようなものが現れます。
身体はない。
顔だけ。
しかも、どこかがおかしい。
表情。
目。
口。
人間だと分かるのに、人間らしく見えない。
映像はそんな顔を映しながら、不可解な文章と不快な音を繰り返していきます。
映像を見た人間に「異常」が起きた
さらに、この“事件”には続きがありました。
映像を長時間見た住民から、異常が報告されたというのです。
頭痛。
吐き気。
幻覚。
原因とされたのが、映像と一緒に流れていた特殊な低周波音。
ネット上で広まった説明では、およそ17〜19Hzの周波数が使用され、それが眼球を微細に振動させることで、視覚的な異常や幻覚を引き起こした――とされていました。
犯人は不明。
放送の出所も不明。
追跡にも失敗。
つまり、
「正体不明の人物がテレビ局を乗っ取り、視聴者へ身体的・精神的影響を与える映像を流した未解決事件」
という形で語られたわけです。

待って。これ、事件記録じゃなくて奇妙な記録なんだよな?

ええ。

……ってことは。

そろそろ、記録と現実を分けましょう。
そんな事件は起きていない
結論から言います。
ワイオミング事件というテレビ電波ジャック事件が実際に起きた記録はありません。
視聴者が集団で幻覚を見た事件も、正体不明の犯人がワイオミング州のテレビ局を乗っ取った未解決事件も、確認されていません。
これは、インターネット上で作られた創作です。
2007年1月ごろには、この“事件”についての文章や映像がネット上を流れ始めていました。
1月25日にはSnopesのフォーラムへ「Wyoming TV Hijack(ワイオミングのテレビ電波ジャック)」という話題が投稿され、その後YouTubeやARGを追跡するコミュニティなどへ広がっていきます。
つまり、最初から「怪談です」と明示された文章を読むのとは違った。
“実在する事件の資料らしきもの”としてネット上を移動していった。
ここが、この記録の面白いところです。
なぜ信じられたのか
もちろん、「こんな映像、本物なわけがない」と思う人もいたでしょう。
それでもワイオミング事件が妙に現実味を持った理由があります。
本当に、テレビ放送が乗っ取られた事件が存在するからです。
1987年11月22日。
アメリカ・シカゴ。
二つのテレビ放送が何者かによって妨害されました。
画面に現れたのは、テレビキャラクター「マックス・ヘッドルーム」を模したマスクを被った人物。
約90秒間、意味不明な行動や発言を続け、放送は元に戻りました。
いわゆる、「マックス・ヘッドルーム電波ジャック事件」。
こちらは実際に発生した事件です。
そして犯人は特定されていません。
ワイオミング事件は、「そんなこと起こるわけがない」という話ではなかった。
似たようなことが、本当に起きたことがある。
だからこそ、創作と現実の境界が少しだけ曖昧になりました。
2007年2月5日「Weird Video I Found」
そして映像が広がります。
2007年2月5日。
YouTubeユーザー「GiveMeANumber(ギブ・ミー・ア・ナンバー)」が、
「Weird Video I Found(ウィアード・ビデオ・アイ・ファウンド/見つけた奇妙な映像)」
という動画を公開します。
そこに映っていたのは、白黒の画面。
文章。
そして、身体のない3DCGの顔。
笑っているように見えるもの。
苦しんでいるように見えるもの。
表情そのものは人間に近い。
でも、何かが少しだけ違う。
いわゆる「不気味の谷」に近い違和感です。
この映像と「ワイオミング州で実際に発生した電波ジャック」という文章が結びついたことで、ただの奇妙な動画だったものに、“事件の記録”という背景が生まれました。
画面に現れる言葉
ワイオミング事件の映像では、不気味な顔だけでなく、文章が非常に重要な役割を持っています。
例えば、
YOU WILL SEE SUCH PRETTY THINGS
「あなたは、とても美しいものを見ることになる」
映像そのものより、この言葉の方が気持ち悪い。
なぜなら、説明がないからです。
誰が、誰に向かって言っているのか。
何を見せようとしているのか。
何が「美しい」のか。
分からない。
そしてまた、人間の顔が映る。
その繰り返し。
普通のホラー映像なら、幽霊が出る。
怪物が襲ってくる。
何かしら意味があります。
しかしワイオミング事件は、何を怖がればいいのかさえ説明してくれない。
そこが不気味でした。
「この音を聞くと幻覚を見る」は本当なのか
ここも整理しておきます。
ネット上のワイオミング事件では、17〜19Hz付近の低周波が人間の眼球を振動させ、幻覚を引き起こす――という説明が広まりました。
非常に科学的に聞こえます。
しかし、「この動画を見れば、その周波数によって幻覚が起きる」と確認された事実はありません。
そもそも、視聴者が集団で体調不良になったという“事件”自体が物語の設定です。
つまり、「特殊な周波数によって被害者が出た」という部分まで含めて、ワイオミング事件を本物らしく見せるための設定として読む必要があります。

そこまで書かれてたら、信じる人いるわ。

「原因不明の幻覚」だけなら怪談ですが、「17〜19Hzが原因です」と書かれると、急に報告書らしく見えます。

数字ってずるいな。

もっともらしさを作るには、とても便利です。
そして「事件」はARGへ変わっていく
さらに面白いのは、ワイオミング事件が一本の怖い動画だけでは終わらなかったことです。
映像。
掲示板。
隠されたメッセージ。
Webサイト。
そして、The Happy Cube(ザ・ハッピー・キューブ)と呼ばれる場所。
ネット上の人々が情報を集め、暗号を調べ、映像の意味を考える。
やがてワイオミング事件は、ARG――Alternate Reality Game(オルタネート・リアリティ・ゲーム/代替現実ゲーム)として展開していきました。
現実のWebサイトや掲示板を使い、あたかも現実世界で何かが起きているかのように物語を進める遊びです。
ここから読者は、ただ物語を眺めるだけの存在ではなくなりました。
自分でサイトを巡り、暗号を調べ、情報をつなぎ合わせる。
物語の「読者」から、事件を追う「調査者」へ変わっていったのです。
そして調べれば調べるほど、さらに別の情報が出てくる。
ワイオミング事件は、「怖い動画を見る」という体験から、「存在しない事件を自分で調査する」という体験へ変化していきました。
本物と偽物が混ざり始める
ここで、少しややこしいことが起きます。
元になった事件は存在しない。
映像も創作。
でも、それについて議論している掲示板は本物。
動画も本当にインターネット上に存在する。
調査している人たちも実在する。
検索すれば情報が出てくる。
さらに、比較対象として語られるマックス・ヘッドルーム事件は、本当に起きた事件。
そうなると検索結果の中で、現実と創作が隣り合います。
知らない人が途中から調べれば、どこまでが本当なのか分からなくなる。
そこまで含めて、この作品の奇妙さでした。
これは「アナログホラー」だったのか
現在なら、こういう作品を見て、「アナログホラーっぽい」と思う人も多いでしょう。
古いテレビ。
放送事故。
警告画面。
不自然な顔。
意味不明な文章。
ノイズ。
今では一つのホラー表現として定着しています。
ただしワイオミング事件が広がったのは2007年。
現在「アナログホラー」と呼ばれている表現が広く知られるようになるより前です。
後から振り返れば、現在のアナログホラーにも通じる表現を早い時期から使っていたネットホラーとして見ることができます。
怖いのは「映像」だけではなかった

でも正体が分かったら、もう怖くなくない?

そうでしょうか。

だって偽物なんだろ?

映像の中に、本物の怪異はいません。

じゃあ――。

でも、あなたが最初にこの映像を見たとして。誰が作ったのか知らない。事件が本当にあったのかも知らない。検索すると、それらしい文章が出てくる。掲示板では人々が議論している。実在する電波ジャック事件まで見つかる。その状態でも、最初から「作り物だ」と判断できたでしょうか。
2007年。
現在ほど「ネット上の怖い映像はARGかもしれない」という見方が一般化していなかった時代。
ワイオミング事件は、テレビの映像を乗っ取ったのではありません。
実際に乗っ取ったものがあるとすれば、それは、
「これは本当に起きた事件かもしれない」という、見る側の判断だった。
放送されなかった「放送事故」
ワイオミング州で、この放送事故は起きていません。
犯人もいない。
被害者もいない。
幻覚を見た住民もいない。
それでも、The Wyoming Incidentという名前は残りました。
映像はコピーされ、文章は転載され、別のサイトへ移り、さらにARGへ発展した。
本物のテレビ放送には、一度も流れていない。
なのに、「昔どこかで本当に流れた映像」のように語られ続けた。

存在しない事件なのに、記録だけは残ったんだ。

ええ。

……それ、深夜資料室向きだな。

だから収蔵しています。
2007年。
ワイオミング州では、何も起きていません。
しかしインターネットには、今もその“事件”の記録が残っています。
放送されなかった放送事故の記録が。
出典・参考
- The Wyoming Incident ― 2007年に広まったオリジナル映像・関連記録
- Know Your Meme「The Wyoming Incident」― 初期拡散、投稿時期、ARG化に関する記録
- Snopes Community「Wyoming TV Hijack」― 2007年当時の議論
- Unfiction ― The Wyoming Incident関連ARGについての当時の記録
- マックス・ヘッドルーム電波ジャック事件に関する報道・記録
※The Wyoming Incidentは、ワイオミング州で実際に発生した未解決の電波ジャック事件ではありません。本記事では、ネット上で語られた物語上の「事件」と、確認できる現実の情報を分けて記載しています。



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