チェコ共和国、クトナー・ホラ。
首都プラハから東へ進んだこの街に、一見するとそれほど異様には見えない教会がある。
諸聖人墓地教会。
その地下へ降りる。
薄暗い礼拝堂。
そこで頭上を見ると、巨大なシャンデリアが吊り下がっている。
だが、それを形作っている白い部品は、装飾用の石ではない。
人間の骨だ。
頭蓋骨。
大腿骨。
肩甲骨。
骨盤。
背骨。
中央のシャンデリアだけではない。
壁には頭蓋骨と骨を連ねた装飾。
天井からは骨のガーランドが垂れ下がる。
部屋の四隅には、人骨を積み上げた巨大なピラミッド。
そして壁には、ある貴族の紋章まで骨だけで作られている。
ここは、Sedlec Ossuary(セドレツ納骨堂)。
世界的に「骨の教会」として知られる場所だ。

いや、これ全部本物なの?

ええ。ここに納められているのは、かつて周辺の墓地に埋葬されていた人々の遺骨です。
見た目だけなら、誰かが悪趣味で作った巨大な美術作品にも見える。
しかし、この場所の歴史を遡ると話はまったく違ってくる。
なぜなら最初から、人骨で教会を飾るために集められた骨ではなかったからだ。
すべては、一つの墓地から始まった
セドレツには12世紀からシトー会の修道院が存在していた。
そして修道院の周囲には、キリスト教徒を埋葬する墓地が広がっていた。
この墓地が特別な場所として知られるようになった背景には、一つの伝承がある。
13世紀後半、セドレツ修道院の修道院長ハイデンライヒが聖地エルサレムを訪れ、帰国する際に「アケルダマ」と呼ばれる土地の土を持ち帰った。
アケルダマは、新約聖書に登場する「血の畑」と結びつけられる場所だ。
ハイデンライヒは、持ち帰った土をセドレツの墓地へ撒いたと伝えられている。
聖地の土が撒かれた墓地。
その話が広まるにつれ、セドレツは「ここへ埋葬されたい」と願う人々が集まる場所になっていった。
現在のセドレツ納骨堂も、この出来事を墓地が広く知られるようになった背景として伝えている。
そして、人が死にすぎた
14世紀。
セドレツ周辺のクトナー・ホラは、銀鉱山によって急速に発展していた。
人口も増える。
同時に、死者も増えた。
1318年には飢饉が地域を襲った。
さらに14世紀半ば、ヨーロッパを黒死病が襲う。
クトナー・ホラ周辺でも多数の死者が出た。
そして15世紀初頭にはフス戦争。
この地域でも戦闘が起こり、さらに多くの人々が死亡した。
その多くが、セドレツの墓地へ運ばれた。
墓地は拡大していく。
だが、土地には限界がある。
墓を増やし続けることはできない。
やがて古い墓を整理し、新しい埋葬場所を確保する必要が出てきた。
すると当然、大量の人骨が地上へ戻ってくる。
骨を捨てることはできなかった
掘り出された骨は、単なる不要物ではなかった。
キリスト教社会において、人間の遺骨は死者そのものと深く結びついている。
死者は最後の審判と復活を待つ存在だった。
墓から掘り出したからといって、粗末に処分するものではない。
そこでセドレツでは、遺骨を安置する場所が必要になる。
14世紀、墓地の中央に二階建ての教会が建てられた。
上階は祈りと追悼のための礼拝空間。
そして地下には、掘り出された遺骨を納める納骨堂が作られた。
これが現在のセドレツ納骨堂につながっている。

じゃあ、この時点では骨を飾ってたわけじゃないんだ。

ええ。まず必要だったのは、増え続ける遺骨を納める場所でした。今のような装飾が作られるのは、ずっと後の時代です。
最初から「骨の教会」を作ろうとしたわけではない。
墓地がいっぱいになった。
古い墓を整理した。
大量の骨が出た。
その骨を地下へ納めた。
始まりは、それだけだった。
地下へ積み上げられていった死者たち
古い墓から掘り出された骨は、地下礼拝堂へ運び込まれていった。
現在の納骨堂には、巨大な骨のピラミッドが残っている。
ただし、いつから人骨を使った装飾が始まったのかは完全には分かっていない。
「16世紀初頭、半盲の修道士が骨を積み上げた」という話も長く語られてきた。
しかし現在のセドレツ側の説明では、初期の骨の配置がいつ、誰によって始められたのかには不明な部分が残る。
そして現在の姿につながる大きな転換点は、18世紀に訪れる。
建築家サンティーニが「死」を配置する
18世紀初頭。
教会の修復に関わったのが、建築家ヤン・ブラジェイ・サンティーニ=アイヘル(Jan Blažej Santini-Aichel/ヤン・ブラジェイ・サンティーニ=アイヘル)だった。
現在では、彼が地下礼拝堂における骨の配置や象徴性の基本構想に関わったと考えられている。
ただし、彼が目指したのは単なる恐怖ではなかった。
死者の骨を、キリスト教的な世界観の中へ配置する。
死。
最後の審判。
そして復活。
地下礼拝堂そのものに、「人間は必ず死ぬ。しかし死がすべての終わりではない」という思想を表現していく。
この場所を象徴する言葉がある。
Memento Mori(メメント・モリ)。
「死を忘れるな」。
自分もいつか死ぬ。
だからこそ、今の生を考える。
地下を埋める骨は、そのためのものでもあった。
そして約150年後。
この空間へ、さらに大きな変化を加える男が現れる。
1870年、フランティシェク・リント
1783年。
皇帝ヨーゼフ2世の改革によって、セドレツのシトー会修道院は廃止された。
その後、教会と納骨堂の庇護を引き継いだのがシュヴァルツェンベルク家だった。
19世紀になると、一族は納骨堂の整備を進める。
そして仕事を任された人物が、木彫師フランティシェク・リント(František Rint/フランティシェク・リント)。
作業が完成したのは1870年。
ここで、セドレツ納骨堂の姿は大きく変わった。
リントは骨を整理するだけでは終わらなかった。
頭蓋骨を並べる。
長い骨を組み合わせる。
小さな骨まで使う。
そして地下礼拝堂を、巨大な人骨装飾へ作り替えていった。
現在有名なシャンデリア。
骨のガーランド。
シュヴァルツェンベルク家の紋章。
これらはリントによって制作されたものだ。
頭上に吊られた「人間」
納骨堂の中央。
そこに巨大なシャンデリアが吊られている。
遠くから見れば、白い装飾を施した豪華な照明器具にも見える。
近づけば違う。
骨だ。
このシャンデリアには、人体を構成するほぼすべての種類の骨が使われていると説明されている。
ただし、「一人の人間の完全な骨格で作られた」という意味ではない。
複数の遺骨から、人体に存在するさまざまな種類の骨を組み合わせて作られている。
そして、このシャンデリアには「光」という意味が与えられている。
希望。
死者の骨から作られたものが、暗い地下礼拝堂を照らす光を支える。
見た目の異様さとは反対に、その象徴は復活への希望だった。
骨だけで作られた「家紋」
さらに異様なものがある。
シュヴァルツェンベルク家の紋章。
もちろん、普通の紋章ではない。
人骨で作られている。
頭蓋骨。
大腿骨。
肩甲骨。
骨盤。
さまざまな形の骨を使い分けながら、巨大な家紋が再現されている。
細部まで作り込まれ、紋章に描かれていたモチーフまで骨で表現されている。
現在の納骨堂では、これを内部にある唯一の「純粋に世俗的な装飾」と説明している。

人骨で家紋まで作ったのか……。

現代の感覚では強烈ですね。ただ、この場所では骨そのものを隠すのではなく、死を目の前に置くことにも意味がありました。
四隅にそびえる巨大な骨の山
シャンデリアや紋章は目を引く。
しかし納骨堂で最も圧倒的なのは、もっと単純なものかもしれない。
地下礼拝堂の四隅に、巨大な骨のピラミッドがある。
大量の頭蓋骨と骨が積み重なり、一つの巨大な塊になっている。
現在の解釈では、この四つのピラミッドは「天上の山」を象徴する。
その上に置かれた王冠は、天国への入口。
ここでも、骨は単なる恐怖演出として使われているわけではない。
死者は最後の審判を待つ。
その先に復活がある。
そうした宗教観が、地下礼拝堂全体に組み込まれている。
「4万人の骨」という数字
セドレツ納骨堂について調べると、「4万人分の人骨」「4万〜7万人」といった数字が出てくる。
ただし、この数字を正確な人数として受け取るのは難しい。
中世から何度も墓地が整理され、大量の遺骨が混在している。
誰の骨なのか分からないものも多い。
一人ずつ数えた完全な記録が残っているわけではない。
現在の公式説明でも、納骨堂に眠る人々がどのように生き、どのように死んだのか、その多くは分かっていない。
だから重要なのは「何万人ぴったり」という数字ではない。
この場所にある骨は、装飾のために集められたものではない。
この地域で生き、飢饉や疫病や戦争の時代を通り、セドレツの墓地へ葬られた人々の遺骨だ。
一つ一つに、かつて名前があった。
これは死者への冒涜なのか
セドレツ納骨堂の写真だけを見ると、そう感じる人もいるだろう。
頭蓋骨を並べる。
骨で照明器具を作る。
貴族の紋章まで作る。
現代日本の感覚から見れば、かなり異様だ。
しかし、この場所を単純に「死体を使った奇怪なアート」と見ると、歴史の大部分が抜け落ちる。
骨が集められたのは、墓地を整理する必要があったから。
地下へ納められたのは、死者の遺骨を安置する場所が必要だったから。
そして骨の配置には、死と復活という宗教的な意味が重ねられていった。
一方、19世紀のリントによる改装は、それ以前の宗教的な構成へ新しい装飾性を加えた。
現在のセドレツ側も、リントの仕事によって地下礼拝堂の印象が変化したことを説明している。
つまり、現在のセドレツ納骨堂は一人の人物が突然作った作品ではない。
中世の墓地。
大量死。
キリスト教の埋葬文化。
バロック時代の宗教観。
19世紀の装飾。
それらが何百年もかけて重なった結果、今の姿になった。
そして現在も「墓」である
ここで忘れてはいけないことがある。
セドレツ納骨堂は、廃墟ではない。
テーマパークでもない。
現在もローマ・カトリック教会の宗教施設であり、死者を追悼する場所だ。
内部での一般観光客による写真撮影も、死者への敬意などを理由に制限されている。
さらに建物では、2014年から大規模な修復が続いている。
建物そのものだけではない。
人骨で作られた装飾もまた、保存と修復の対象になっている。
何百年前の死者たちは、今もそこにいる。
骨の教会が伝えているもの
セドレツ納骨堂へ入れば、最初に目へ飛び込んでくるのは人骨だ。
だから怖い。
異様に見える。
だが歴史を遡ると、少し違うものが見えてくる。
そこにあるのは、「死を面白がるために集められた骨」ではない。
生きていた人間が、死に、埋葬され、墓地から掘り出され、そして再び祈りの場所へ納められた結果だ。

最初に想像した「骨で作った怖い教会」とは、だいぶ違ったな。

ええ。怖がらせるために死者を集めた場所ではありません。死者があまりにも多く集まった場所が、何百年もかけて今の姿になったんです。
中央では、死者の骨で作られたシャンデリアが吊られている。
その象徴は「光」。
地下に積み上げられた無数の骨の上には、天国への入口を表す王冠が置かれている。
そして、この場所を象徴する言葉がある。
Memento Mori.
死を忘れるな。
地下を埋め尽くす骨は、いつか死ぬ誰かのために置かれているのではない。
それを見ている、
まだ生きている人間のために置かれている。
出典・参考資料
- Sedlec Ossuary / Roman Catholic Parish of Kutná Hora-Sedlec ― History of the Ossuary
- Sedlec Ossuary ― Ossuary Renovation and Symbolism
- UNESCO World Heritage Centre ― Kutná Hora: Historical Town Centre with the Church of St Barbara and the Cathedral of Our Lady at Sedlec


コメント