ページを開く。
最初に目へ入るのは、植物だった。
長い茎。
大きく広がった葉。
複雑に枝分かれした根。
中世の植物図鑑――そう思って眺めていると、少しずつ違和感が出てくる。
この植物は、何だ。
実在する植物に似ている部分はある。
だが、葉と根と花を一つずつ見ていくと、どうにも一つの植物として一致しない。
ページをめくる。
今度は星。
円。
十二宮のような図。
さらに進むと、裸の女性たちが緑色の液体のようなものに浸かり、奇妙な管でつながれている。
そして、そのすべてを取り囲むように文字が書かれている。
見たことのない文字。
しかし落書きには見えない。
単語らしきまとまりがあり、行があり、段落がある。
同じ文字列が繰り返される。
まるで、意味のある文章を読んでいるように見える。
ただし。
誰にも読めない。
現在、この本はアメリカ・イェール大学のバイネッキ稀覯本・写本図書館に、Beinecke MS 408として保管されている。
一般には、Voynich Manuscript(ヴォイニッチ手稿)。
世界でもっとも有名な「読めない本」の一つである。
現在に至るまで、その文字を一貫して読めると研究者の広い合意を得た解読法は存在していない。
1912年――一人の古書商が奇妙な本を見つける
この本が現代に姿を現したのは1912年。
場所はイタリア。
ローマ近郊のフラスカーティにあったイエズス会関連のコレクションだった。
そこを訪れた古書商が、Wilfrid Voynich(ウィルフリッド・ヴォイニッチ)である。
ポーランド出身のヴォイニッチは、のちにロンドンやニューヨークで活動した古書商だった。
彼はそこで多数の古書・写本を購入する。
その中に、例の本があった。
羊皮紙に書かれた奇妙な文字。
大量の植物画。
天体らしき図。
裸の女性。
薬草の根のようなもの。
ヴォイニッチは、この本がただの無名写本ではないと考えた。
そして彼の名前から、「ヴォイニッチ手稿」と呼ばれるようになる。

ここで見つかった時点でも、もう誰も読めなかったの?

少なくとも、ヴォイニッチが手にした時点で内容は理解されていませんでした。ただ、本の中には過去へ遡る手がかりが残っていました。
その手がかりは、一通の手紙だった。
手稿には、17世紀の手紙が挟まれていた
ヴォイニッチ手稿には、1665年または1666年の日付を持つ手紙が付属していた。
書いたのは、Johannes Marcus Marci(ヨハネス・マルクス・マルチ)。
プラハの医師・学者である。
送り先はローマのイエズス会士、Athanasius Kircher(アタナシウス・キルヒャー)。
キルヒャーは当時、古代文字や言語、暗号など幅広い分野を研究していた人物だった。
つまりマルチは、「この本を読めるかもしれない人物」へ手稿を送ったのである。
手紙には、さらに興味深い話が書かれていた。
かつてこの本を所有していた人物が、神聖ローマ皇帝ルドルフ2世だったというのである。
そして皇帝は、この本をかなり高額で購入したと伝えられていた。
さらに著者は13世紀の学者、Roger Bacon(ロジャー・ベーコン)ではないかという話まで添えられていた。
ここから長い間、「ヴォイニッチ手稿はロジャー・ベーコンが書いた秘密の知識なのではないか」という説が広まる。
だが後に、この説を大きく揺るがす科学的な結果が出る。
本そのものは、いつ作られたのか
ヴォイニッチ手稿には日付が書かれていない。
作者の署名もない。
場所もない。
だから長い間、年代そのものが謎だった。
そこで研究者たちは、文字ではなく、本の素材を調べた。
手稿に使われている羊皮紙を放射性炭素年代測定した結果、その材料となった動物が生きていた時期は、1404年から1438年ごろと推定された。
つまり少なくとも羊皮紙は、15世紀前半のものだった。
これは重要だった。
ロジャー・ベーコンが亡くなったのは13世紀末。
年代が合わない。
現在では、ヴォイニッチ手稿をロジャー・ベーコン本人の著作とみなす説は支持されていない。
さらにインクや顔料についての科学的調査でも、後世の人物が古い羊皮紙へ近代的なインクで偽造したことを示す明白な証拠は見つかっていない。
少なくとも、「20世紀の古書商ヴォイニッチが作った偽物」という単純な説明は成立しにくい。

じゃあ、本当に600年くらい前から存在してる本なんだ。

羊皮紙については、その年代と考えてよいでしょう。問題は、そこに何を書いたのかです。
約240ページに広がる、奇妙な世界
現存するヴォイニッチ手稿は、約240ページ。
失われたページもあると考えられている。
そして内容は、絵の特徴からいくつかのセクションに分けられる。
まず最も目立つのが、植物。
一ページに一つ、あるいは複数の植物が描かれ、その周囲へ文章が並ぶ。
一見すると薬草図鑑に見える。
しかし、多くの植物は現在知られている種と確実には一致しない。
次に、天文学・占星術らしきページ。
太陽。
月。
星。
円形の図。
十二宮を思わせる記号。
そこには人物や星が円形に配置されている。
さらに、宇宙論的な図。
複数の円や島のようなものがつながった巨大な折り込みページまで存在する。
そして、もっとも異様なのが――
裸の女性たち。
緑色の液体に浸かる女性たち
何人もの裸の女性が、浴槽のようなものへ入っている。
だが普通の入浴風景には見えない。
浴槽同士が管でつながっている。
緑色の液体。
奇妙な容器。
人体の内部を連想させるような構造。
女性たちは、その中を移動しているようにも見える。
研究上、この部分はしばしば、balneological section――入浴・温浴に関するセクションなどと呼ばれる。
中世ヨーロッパには温浴や医学を扱った文献も存在した。
そのため、女性の健康、生殖、医学、温浴療法、人体。そうした内容ではないかという解釈がある。
だが文字が読めない以上、絵から推測しているだけである。

絵があるのに、絵を見ても内容が分からないのか。

むしろ絵があるからこそ、「読めそう」に見えるんです。植物なら植物学、星なら天文学と考えられる。でも文字が読めないので、それ以上へ進めません。
最後には「レシピ」のような文章が並ぶ
手稿の後半には、植物の根や葉のようなものが並ぶページがある。
薬瓶らしき容器も描かれている。
そのため、薬学・薬草学に関する部分ではないかと考えられている。
そして終盤。
絵がほとんど消える。
短い文章が大量に並び、それぞれの冒頭には星や花のような記号が付いている。
現代の研究者は、この部分を便宜的に、recipes――レシピと呼ぶことがある。
もし本当にレシピなら、前半で紹介した植物や薬草を「どう使うか」が最後に書かれているのかもしれない。
そう考えると、この本には一応の構造が見えてくる。
植物を紹介する。
天体や時期を示す。
人体や入浴を扱う。
薬を扱う。
最後に処方を書く。
まるで、一冊の医学書あるいは薬草書。
そう見える。
だが――
それを確認するためには、文字を読まなければならない。
では、この文字は何なのか
ヴォイニッチ手稿には、およそ数万語に相当する文字列がある。
現代の研究では、文字の種類をどう数えるかによって差があるものの、おおむね20数種類から40種類ほどの記号が使われていると分析されている。
文字列の間には空白がある。
つまり、「単語」らしき区切りがある。
同じ単語が繰り返される。
似た形の単語も大量に存在する。
さらに、ある文字は単語の先頭に現れやすく、ある文字は末尾に現れやすい。
ページやセクションによって、使われる単語の傾向まで変化する。
完全なランダム文字列とは明らかに違う。
統計研究でも、手稿の記号配置には強い構造が確認されている。ただし、既知の自然言語や暗号文とも異なる特徴があり、「言語らしいから自然言語だ」と単純には結論できない。
本当に「言語」なのか
研究者たちは、ヴォイニッチ手稿の文章を情報理論や統計的な手法でも分析してきた。
すると、単語の出現頻度、離れた場所での単語同士の関係、セクションごとの語彙の違い。
そうした部分に、実際の人間の言語に似た構造が見つかった。
特定の単語が、特定のテーマらしきページに集中する。
似た形の単語同士が関連して現れる。
無意味な文字を完全にランダムに並べただけでは説明しにくい特徴だった。

じゃあ、やっぱり何かの言葉が書いてあるんじゃないの?

その可能性を支持する研究はあります。ただし、それだけで「意味のある文章」と証明されたわけではありません。
なぜなら、人間が一定の規則に従って無意味な文章を生成した場合でも、言語に似た統計的特徴が生まれる可能性があるからだ。
実際、ヴォイニッチ手稿は精巧な偽書なのではないかという説も消えていない。
「最初から何も書いていない」という説
想像してほしい。
15世紀。
奇妙な植物。
未知の文字。
占星術。
医学。
誰にも読めない秘密の本。
それを、「古代の賢者が残した失われた知識だ」と言って裕福な収集家へ売る。
もし相手が神秘思想を好む人物なら、非常に高値で売れるかもしれない。
ヴォイニッチ手稿には、まさにそうした可能性がある。
つまり、読めないのではない。
最初から読む内容など存在しない。
作者が一定の規則を使い、意味のない文字列を大量に作った。
絵もそれらしく描いた。
そして、「秘密の知識が書かれた本」として売った。
これが、hoax――偽書説。
実際、一定の規則を利用してヴォイニッチ風の文字列を生成できるとする研究もあり、偽書説は現在も候補の一つとして残っている。
だが、この説にも問題がある。
偽物にしては、手が込みすぎている
約240ページ。
数万語。
大量の植物画。
天体図。
人体。
薬草。
折り込み図。
さらに文章には、ページをまたいだ統計的な構造まで存在する。
単純なランダム生成だけでは説明しにくい。
もちろん、「手間がかかっているから本物」とは言えない。
高度な規則を使った偽書なら、構造が生まれる可能性もある。
だから現在も、意味のある文章なのか。意味のない文章なのか。
その入口から決着していない。
世界中の解読者が挑んだ
20世紀。
ヴォイニッチ手稿は、暗号研究者たちの標的になった。
単純換字式暗号。
多表式暗号。
略記法。
人工言語。
ラテン語。
ドイツ語。
イタリア語。
ヘブライ語。
その他さまざまな言語。
「解読した」という主張は何度も現れた。
しかし、一部分だけ読める方法では足りない。
本当に解読したのであれば、同じ規則を使って本全体を一貫して読めなければならない。
植物のページでも。
天体図でも。
女性たちのページでも。
最後のレシピでも。
それができなければ、文字列に都合のいい意味を当てはめただけかもしれない。
現在まで、その基準を満たして研究者の広い合意を得た解読法は存在しない。
「AIなら読める」はどうなったのか
コンピューターが進歩すると、当然こう考えられるようになった。
人間に読めないなら、AIに読ませればいい。
文字列をデータ化する。
単語頻度を調べる。
文字同士の関係を見る。
既知の言語と比較する。
機械学習を使う。
実際、こうした研究によってヴォイニッチ手稿の構造について分かったことは増えた。
しかし、構造を見つけることと、意味を読むことは違う。
未知の文字。
未知の言語。
未知の綴り方。
暗号かもしれない。
略記かもしれない。
そもそも意味がないかもしれない。
正解となる対訳文も存在しない。
AIへ「これが正しい翻訳です」と教える材料そのものがない。
現代の計算機解析は、手稿の規則性や内部構造を調べる強力な道具になっている。
それでも、文章全体を一貫して読める「答え」には到達していない。
一人で書いた本ではなかった可能性
筆跡を詳しく調べる研究では、ヴォイニッチ手稿の本文には複数の書き手が関わったと考えられている。
古書体学上の分析では、5人の書き手が本文を書いたとする研究が発表されている。
これは地味だが大きな情報だ。
もし単独の人物が短期間で適当に文字を並べて作った本なら、複数の筆跡が存在する理由を説明しなければならない。
逆に、複数人が一つの知識体系を書き写したのであれば、この本は何らかの共同作業だったことになる。
工房。
研究者集団。
医療関係者。
宗教施設。
あるいは別の何か。
ただし、「5人いた」ことから内容までは分からない。
書いた人物たちは何を写していたのか。
そもそも意味を理解していたのか。
それも分からない。
ここから考察――なぜ600年近く読めないのか
ここからは考察になる。
ヴォイニッチ手稿が難しい最大の理由は、暗号が高度だからとは限らない。
もっと根本的な問題がある。
比較するものがない。
たとえば古代文字を解読するとき、同じ文章が別の既知言語でも書かれていれば大きな手がかりになる。
有名なのがロゼッタ・ストーンだ。
しかしヴォイニッチ手稿には、「この文章は○○を意味する」と確実に言える部分がない。
植物の名前さえ分からない。
人名も分からない。
地名も分からない。
数字の体系さえ確定していない。
だから最初の一文字から、仮説になる。
一文字間違えば、すべてが変わる
仮にこの文字が「A」だとする。
次の文字を「B」。
その次を「C」。
そうやって対応表を作る。
すると文章らしいものが現れる。
研究者は、「読めた」と思うかもしれない。
だが最初の「A」が間違っていたら。
全部崩れる。
さらに、そもそも一文字が一音を表している保証すらない。
一文字で一単語かもしれない。
二つの文字で一音かもしれない。
母音を書かない方式かもしれない。
略語かもしれない。
暗号かもしれない。
複数の方式が混ざっているかもしれない。
そして最も厄介なのは、意味が存在しない可能性まで残っていること。
解読者は、正解の存在そのものを保証されていない。
それでも「ただの落書き」と切り捨てられない
一方で、ヴォイニッチ手稿には明らかな規則性がある。
単語らしい区切り。
繰り返し。
位置による文字の偏り。
ページごとの語彙の違い。
セクションごとの特徴。
統計的研究では、自然言語と共通する性質が複数見つかっている。
さらに、絵にも構成がある。
植物。
星。
人体。
薬。
処方らしき文章。
完全な無意味なら、なぜこれほど体系的に作ったのか。
意味があるなら、なぜこれほど長い間、誰一人として確実に読めないのか。
その二つの間で、ヴォイニッチ手稿は今も止まっている。
そして、本は開いたまま残っている
1912年。
ヴォイニッチがこの本を見つけてから一世紀以上。
その間に、世界は変わった。
二度の世界大戦。
コンピューター。
インターネット。
巨大なデータベース。
機械学習。
AI。
文字を解析する能力は、15世紀の人間には想像もできないほど進歩した。
それでも、この本の最初のページを開いて、そこに書かれた文章を、誰も確実には読み上げられない。

六百年近く前、誰かがこの文字を書きました。少なくとも、その手だけは確かに存在しました。

なのに、その人が何を書いたのかだけが残ってないんだな。

ええ。文字は残りました。意味だけが、こちらへ届いていません。
ヴォイニッチ手稿は、失われた文明の魔導書だと証明されたわけではない。
宇宙人の本でもない。
超常現象でもない。
もしかすると、中世の医学書かもしれない。
薬草書かもしれない。
特殊な暗号で書かれた知識かもしれない。
あるいは、途方もなく手の込んだ偽物かもしれない。
だが一つだけ、今も変わらない事実がある。
本は、そこにある。
文字も残っている。
絵も残っている。
ページのほぼすべてを、今では世界中の人間が高解像度画像で見ることさえできる。
隠されているわけではない。
燃えて失われたわけでもない。
鍵のかかった金庫に封印されているわけでもない。
答えは、約240ページのどこかに最初から書かれているのかもしれない。
それなのに、読めない。
そして今日もまた、誰かがその文字を見つめている。
最初の一語だけでも、こちら側へ連れ戻そうとして。

……これで、この資料も整理完了ですね。

あれ。なんか今日、棚いっぱいじゃない?

そうですね。今ので、ちょうど百件目です。

百!? そんなに見てきたの俺!?

怪異、事件、奇妙な記録。それから、最後まで答えの出なかったものも。随分増えました。

じゃあ今日は閉館? 百件やったんだし、さすがに休もうぜ。

何を言っているんですか。

棚なら、まだ空いていますよ。

……百で一区切りとか、そういうのないの?

ありません。記録がある限り、ここへ運び込まれてきます。

知ってた。
深夜資料室――収蔵記録、100件。
次の資料は、もう届いている。
出典・参考資料
- Yale University, Beinecke Rare Book & Manuscript Library ― Voynich Manuscript(Beinecke MS 408)
- Yale News ― ヴォイニッチ手稿の言語学・古書体学研究に関する解説
- University of Arizona ― ヴォイニッチ手稿羊皮紙の放射性炭素年代測定
- PLOS ONE ― ヴォイニッチ手稿の単語分布・情報構造に関する統計研究
- ヴォイニッチ手稿の筆跡・複数書記に関する古書体学研究



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