
マイナス何十度っていう雪山で、夜中にテントから出ることってある?

生命の危険が迫っているなら、あるでしょう。

靴も履かずに?

……それでも、中にいるより外へ出た方が安全だと判断したのなら。
1959年2月。
ソビエト連邦、北ウラル山脈。
雪に閉ざされた山中で、9人の若者が死亡しました。
彼らは冬山経験のない観光客ではありません。
厳しい雪山を歩くための経験と装備を持った一行でした。
それにもかかわらず、彼らが最後に残したテントは異様な状態で発見されます。
防寒着も靴も残っている。
食料も装備もある。
そして――
テントには、内側から切り裂かれたとみられる跡がありました。
一行は氷点下の夜、十分な服も着ないまま雪の中へ出ていった。
その後、生きて戻った者はいませんでした。
これが後に世界中で語られることになる、「ディアトロフ峠事件」です。
経験豊富な9人
一行を率いていたのは、23歳のイーゴリ・ディアトロフ。
もともと遠征には10人が参加していました。
しかし途中でユーリ・ユージンが体調を崩し、引き返します。
結果として山へ進んだのは9人。
この判断によってユージンは、遠征参加者で唯一生き残ることになります。
一行は日記を書き、写真を撮りながら進んでいました。
つまり彼らの行動は、ある地点までは比較的よく記録されています。
1959年2月1日。
一行はホラート・シャフイル山付近を進んでいました。
天候が悪化し、視界も悪くなる中、予定していたルートからずれたとされています。
そして彼らは森林まで戻らず、山の斜面にテントを設営しました。
これが彼らの最後のキャンプになります。
予定日になっても、連絡が来ない
遠征が終われば、ディアトロフは電報を送る予定でした。
しかし予定を過ぎても連絡はありません。
当初、それほど深刻には受け止められていなかったとされています。
冬山遠征では予定が多少遅れることもある。
しかし日が経っても戻らない。
やがて捜索隊が組織されます。
そして2月26日。
山の斜面で、一行のテントが発見されました。
ここから事件は異様なものへ変わります。
テントの中には、必要なものが残されていた
テントは損傷していました。
そして調査では、布地の一部が内側から切られていたと判断されました。
さらに不可解なのが、残された装備です。
靴。
衣類。
食料。
その他の装備。
厳冬期の山で外へ出るなら、持っていかなければ命に関わるものが残されていました。
にもかかわらず、9人はいなくなっていた。
つまり彼らは、「防寒具を身につけ、普通に入口から外へ出る時間すら惜しい」と思わせる何かに直面した可能性があります。
捜索隊はテントから続く足跡を追いました。
足跡は斜面を下り、森林方向へ続いていました。
約1キロ以上。
そして大きな杉の木の近くで、最初の遺体が発見されます。
杉の木の下にいた2人
発見されたのは、ユーリ・クリヴォニシチェンコとユーリ・ドロシチェンコ。
二人は十分な服を着ていませんでした。
近くには小さな焚き火の跡がありました。
つまり彼らは、テントを離れたあと森林まで移動し、そこで火を起こそうとしていたことになります。
さらに杉の木には、人が登ったことを示す痕跡があったとされています。
なぜ木に登ったのか。
テントの位置を確認しようとした。
周囲を見渡そうとした。
あるいは別の理由があった。
ここは断定できません。
ただし、少なくとも彼らが森林まで移動した後も、何らかの行動を取っていたことは分かります。
そして捜索範囲を広げると、さらに3人が発見されました。
テントへ戻ろうとしていたのか
杉の木とテントを結ぶような位置で、イーゴリ・ディアトロフ、ジナイダ・コルモゴロワ、ルステム・スロボディンの3人の遺体が見つかります。
その位置関係から、森林からテントへ戻ろうとしていたのではないかと考えられました。
もしそうなら、少し状況が見えてきます。
何らかの理由で9人全員がテントを脱出する。
森林まで避難する。
焚き火を作る。
状況が落ち着いた、あるいは装備が必要になったため、何人かがテントへ戻ろうとする。
しかし極寒と強風の中で力尽きる。
ここまでなら、異常ではあっても理解できなくはありません。
ところが残る4人は、なかなか発見されませんでした。
雪が解け始めた5月。
杉の木からさらに離れた谷状の場所で、最後の4人が発見されます。
そして彼らの状態が、この事件を「単なる遭難」では終わらせませんでした。
最後の4人
4人は雪の深い場所にいました。
そして一部には非常に重い外傷が確認されます。
胸部に重大な損傷を負った者。
頭蓋骨に損傷を負った者。
さらに遺体の一部では、眼球や舌などの軟組織が失われていました。
ここだけが切り取られ、「舌を抜かれていた」「目をえぐられていた」という形で世界中に広がっていきます。
しかし、ここは慎重に見る必要があります。
遺体は長期間、雪や水にさらされていました。
したがって軟組織の欠損を、そのまま「何者かによる攻撃」と結びつけることはできません。
一方で、胸部や頭部の大きな外傷そのものは現実に存在しました。
問題は、何がこれほどの力を加えたのか。
なぜテントを切ったのか
この事件で最も重要なのは、実は遺体の状態よりこちらかもしれません。
なぜ9人は、テントから急いで出たのか。
通常なら入口から出ればいい。
靴を履けばいい。
防寒着を着ればいい。
しかし実際には、それをせずに斜面を下った。
当時の捜査は最終的に、彼らが死亡した原因について「抗し難い自然の力」によるものとしました。
具体的に何が起きたのかは分からない。
その曖昧な結論が残ったことで、事件には無数の説が生まれます。
軍事実験、放射能、謎の光
事件をさらに複雑にした要素があります。
一部の衣服から放射性物質が検出されたこと。
周辺で「光る球体」を見たという証言が語られたこと。
そして事件がソ連時代に発生したこと。
この組み合わせは非常に強烈でした。
秘密兵器の実験だった。
軍のミサイルだった。
核関連の事故だった。
KGBが関与していた。
さらにはUFO、未知の生物、現地住民による襲撃など、さまざまな説が生まれました。
しかし奇妙な要素が存在することと、それが9人の死因であることは別問題です。
現在では、この事件を考えるうえで非常に重要な説が再評価されています。
雪崩です。
「でも、雪崩の跡がない」
雪崩説は昔からありました。
しかし長い間、大きな弱点があると考えられていました。
まず、テントが設置された斜面は雪崩が起きるには緩すぎるように見えた。
捜索隊が到着したとき、大規模な雪崩の痕跡も確認されていない。
そして一行は斜面を削ってテントを設営してから、かなり時間が経っていた。
削ったことが原因なら、なぜすぐではなく夜中に崩れたのか。
さらに、小さな雪崩で胸や頭にあれほどの損傷を与えられるのか。
このため、「雪崩では説明できない」という認識が長く残りました。
ところが、ここが近年大きく変わっています。
2021年、雪を物理的に再現する
2021年、Johan GaumeとAlexander Puzrinは、雪崩説を物理モデルから検討した研究を『Communications Earth & Environment』に発表しました。
研究者が注目したのは、斜面全体の平均角度ではありません。
テント周辺の地形には凹凸があり、雪の下には局所的により急な地形が存在する。
さらに一行はテントを張るため、斜面の雪を削っています。
そこへ強い風が吹き続ける。
風によって運ばれた雪が、テント上部へ少しずつ積もる。
すると設営直後には何も起きなくても、数時間後に雪の板状部分――スラブが崩れる条件が整う可能性がある。
モデルでは、斜面を削ってから約7.5~13.5時間後に崩壊条件へ達する可能性が示されました。
つまり、「テントを設営したときは何も起こらなかったのに、夜中になって突然危険が発生した」という時間差まで説明できる可能性が出てきたのです。
小さな雪崩でも十分だった可能性
ここでも重要なのは、山全体を飲み込むような巨大雪崩を想像する必要がないという点です。
研究チームのシミュレーションでは、比較的小規模なスラブがテントを直撃した場合でも、中で横になっていた人間に大きな衝撃を与える可能性が示されました。
研究者たちは、自動車衝突実験などの人体への衝撃データも利用して検討しています。
その結果、確認された胸部や頭部の重傷と矛盾しない可能性が示されました。
一方で研究論文自身も、「これですべてを解決した」とはしていません。
重傷の一部は、後に発見された急な谷で雪の圧力を受けた結果だった可能性も残しています。
もし雪崩だったなら、あの夜はこうなる
ここまでの研究を一つの流れにすると、事件は全く違って見えます。
9人は斜面を削ってテントを設営した。
夜になり、強風によって上部へ雪が蓄積する。
深夜。
雪の板が崩れ、テントを襲う。
中にいる彼らには、その時点で規模など分かりません。
「さらに大きく崩れるかもしれない」
そう判断したなら、入口を探して順番に出るより、テントを切って一刻も早く斜面から離れる。
雪崩の進行方向から外れるため森林へ向かう。
しかし外は氷点下25℃を下回るような極寒と強風。
森林へ着いた彼らは焚き火を作る。
一部はテントへ装備を取りに戻ろうとする。
別の者たちは、風を避けるため谷状の場所へ移動する。
やがて低体温症が進む。
最後の4人がいた場所では、雪の崩落などによってさらに重い外傷を負った可能性もある。
こう並べると、意味不明だった一つ一つの行動が、少しずつつながってきます。
では、雪崩の跡はどこへ消えた?
それでも疑問は残ります。
捜索隊は、明確な雪崩跡を見ていません。
ところが2022年、この点についても興味深い観察結果が発表されました。
研究者たちの後続調査に関連して現地を訪れた登山ガイドが、ディアトロフ峠周辺で実際に小規模なスラブ雪崩を確認しました。
しかも、その痕跡は強風によって運ばれる雪に覆われ、1時間もしないうちにほとんど見えなくなったと報告されています。
1959年に捜索隊がテントを発見したのは、事件から数週間後です。
「跡がなかったから雪崩は起きなかった」とは、単純には言えなくなりました。
さらに2021~2022年の現地調査では、テント地点周辺地域が雪崩の起こらない場所ではないことも確認されています。
事件は解決したのか
ここで深夜資料室としては、線を引いておきます。
「雪崩説には現在、かなり具体的な科学的根拠がある」
これは言えます。
2020年のロシア検察側の調査も雪崩を原因とし、2021年の研究は従来の反論に物理的な説明を与え、2022年には周辺で実際の雪崩が観察されました。
しかし、「1959年2月1日の夜、間違いなくこのモデル通りの雪崩が発生した」と証明されたわけではありません。
2021年の研究者自身も、事件全体を解決することは論文の範囲外だと明記しています。
放射性物質。
一行がテントを離れた後の細かな行動。
遺体の位置。
外傷がいつ、どこで生じたのか。
すべてが一つの証拠によって完全に確定したわけではありません。
「不可解な事件」が、少しずつ遭難事故へ戻っていく

なんか……最初に聞いたときと、最後で印象が全然違う。

テントを切った。靴を履いていなかった。重傷者がいた。放射性物質も検出された。それぞれを単独で聞けば、確かに異様です。

でも順番に並べると、一応つながるんだ。

少なくとも、以前よりは。
ディアトロフ峠事件が恐ろしいのは、怪物がいたからではないのかもしれません。
むしろ逆です。
経験を積んだ9人が、極寒の山で突然の危険に遭遇する。
生き残るためにテントを脱出する。
森林へ逃げる。
火を起こす。
装備を取り戻そうとする。
風を避ける場所を探す。
それでも、一人ずつ命を失っていく。
長年「理解不能」とされた行動が、科学によって少しずつ合理的な行動へ戻っていくほど、最後に残るのは超常現象ではなく、冬山で判断を一つ間違えれば、人間はどうなるのかという現実なのかもしれません。

それはそれで、怪談より怖いな。

ええ。
記録されているのは、9人全員が帰らなかったという事実です。
出典・参考
- Johan Gaume & Alexander M. Puzrin, “Mechanisms of slab avalanche release and impact in the Dyatlov Pass incident in 1959”, Communications Earth & Environment, 2021
- Johan Gaume & Alexander M. Puzrin, “The Dyatlov Pass accident revisited”, Communications Earth & Environment, 2022
本記事では、長年語られてきた諸説と、近年発表された雪崩に関する研究を区別して記載しています。現在の科学的説明は事件の多くの要素を説明し得るものですが、1959年当夜の出来事すべてが直接証明されたわけではありません。



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