
家の外に、知らない人の足跡があったら嫌だな。

そうですね。

雪が積もっててさ。森から家まで足跡が続いてる。

警察へ相談した方がいいでしょう。

でも――家から森へ戻った足跡がなかったら?
1922年3月31日。
ドイツ南部、バイエルン州。
周囲から離れた場所に、ヒンターカイフェックと呼ばれる一軒の農場がありました。
そこで暮らしていた家族と、その日に働き始めたばかりの使用人。
計6人が殺害されます。
遺体が発見されたのは4月4日。
事件から約4日後でした。
ところが、この4日間。
農場が完全に放置されていたとは考えにくい痕跡が残されていました。
家畜。
暖炉。
食料。
殺したあと、犯人は逃げなかったのではないか。
誰も生きていない農場で、数日間生活していたのではないか。
そんな疑問が、100年以上経った現在まで残っています。
ヒンターカイフェック
農場で暮らしていたのは、グルーバー/ガブリエル一家です。
アンドレアス・グルーバー。
妻のツェツィーリア。
娘のヴィクトリア・ガブリエル。
ヴィクトリアの7歳の娘ツェツィーリア。
2歳の息子ヨーゼフ。
そして事件当日の午後、新しい使用人として農場へやってきたマリア・バウムガルトナー。
この6人が犠牲になります。
ヒンターカイフェックは、集落の中心にあるような家ではありません。
周囲から離れた農場でした。
だからこそ、そこで何が起きていても、すぐには分からない。
そして事件直前。
アンドレアスは周囲の人々に、奇妙な出来事について話していました。
雪の中の足跡
事件について現在も確認できる記録の中に、非常に気味の悪い証言があります。
1922年3月30日の朝。
つまり殺害の前日です。
アンドレアスは知人に、前夜、泥棒に入られたようだという趣旨の話をしていました。
機械小屋の錠が壊されていた。
そして新雪の上には、人間の足跡があった。
その足跡は農場へ向かっていたという。
一方で、農場から離れていく足跡が見当たらなかったという話が後の証言に残っています。
ただし、ここは注意が必要です。
ネット上では、「犯人が数日前から屋根裏に潜伏していた決定的証拠」のように語られることがあります。
しかし足跡について残っている証言には後年のものもあり、人数についても「1人」「2人」など記録上の揺れがあります。
したがって、誰かが足跡を残した可能性は記録にある。
しかし、その人物が殺人犯であり、農場内へ潜伏したとまでは確認できない。
ここは分けて考える必要があります。
それでも――
殺害の直前にそんな話をしていたというだけで、十分に不穏です。
家の中でも、何かがおかしい
事件直前には、ほかにも奇妙な出来事が語られています。
農場に見覚えのないミュンヘンの新聞が落ちていた。
鍵がなくなった。
そして、屋根裏から物音が聞こえた。
前任の使用人についても、「屋根裏の音を怖がって農場を辞めた」という話が非常に有名です。
ただし、このあたりは後世の資料や証言によって膨らんだ部分も含まれています。
ヒンターカイフェック事件では、こうした話を全部同じ強さの「事実」として扱ってしまうと危険です。
それでも確かなのは、事件直前、アンドレアス自身が侵入者を疑わせる異変について周囲へ話していたこと。
そして警察へ通報しないまま、農場で生活を続けていたことです。
3月31日、新しい使用人がやってくる
1922年3月31日午後4時30分ごろ。
新しい使用人マリア・バウムガルトナーが、姉に付き添われてヒンターカイフェックへ到着します。
姉は約1時間後に農場を離れました。
それが、マリアが外部の人間に生きている姿を確認された最後の時間になります。
彼女にとっては、ヒンターカイフェックで働く最初の日でした。
そしてその夜。
午後7時30分から9時ごろまでの間に、殺害が行われたと現在では考えられています。
4人は納屋で殺された
捜査側の再構成では、ヴィクトリア、母ツェツィーリア、父アンドレアス、そして7歳のツェツィーリア。
この4人は、納屋で次々と襲われたと考えられています。
使用されたとみられるのは、農場にあったReuthaue(つるはし・鍬に近い農具)。
ここには大きな疑問があります。
4人が同じ場所で同時に襲われたわけではなく、一人ずつ納屋へ入った可能性がある。
では、なぜ?
先に入った家族が戻ってこない。
それでも次の家族が納屋へ向かう。
そして戻ってこない。
また次の人間が向かう。
何が彼らを納屋へ向かわせたのか。
家畜が騒いだのか。
家族に呼ばれたと思ったのか。
犯人が何らかの方法で誘導したのか。
この部分は、現在も確定していません。
家の中に残っていた2人
納屋で4人を殺したあと、犯人は住居部分へ移動したと考えられています。
そこには、その日やってきたばかりの使用人マリアがいました。
マリアも殺害されます。
そしてもう一人。
ヴィクトリアの息子。
2歳のヨーゼフ。
幼いヨーゼフも寝ていた場所で殺害されました。
これで農場にいた6人全員が死亡します。
事件は終わった。
普通なら、そう考えます。
犯人は農場から逃げる。
誰にも見つからないように、できるだけ遠くへ行く。
ところがヒンターカイフェックでは、その後の数日間がおかしい。
翌日、煙が上がっていた
4月1日。
7歳のツェツィーリアは学校へ来ませんでした。
当然です。
すでに殺害されていたと考えられるからです。
しかし周囲の人々は、まだ事件を知りません。
その日の夜。
農場の近くを通った人物は、建物のかまどで火が燃えていたことを後に証言しています。
さらに人影を見たという証言も残っています。
4月2日。
一家は教会にも姿を見せません。
それでも農場から助けを求める者はいない。
4月3日。
郵便配達人が農場を訪れます。
新聞を置きます。
家の中から誰も出てこない。
しかし、この時点でも6人の遺体は発見されません。
家畜は生きていた
ここがヒンターカイフェック事件の中でも、特に有名な部分です。
事件後、家畜には世話をされた形跡があったとされています。
さらに家の中では食料が消費されたとみられる痕跡もありました。
殺人が3月31日。
発見が4月4日。
もし殺害直後に犯人が逃げていたなら、誰が家畜の世話をしたのでしょう。
誰が火を使ったのでしょう。
誰が食料を食べたのでしょう。
もちろん、これらの行動すべてを同一人物が行ったと完全に証明できるわけではありません。
当時の記録にも不確かな部分があります。
それでも捜査資料を踏まえると、殺害後も誰かが農場を使用していた可能性は無視できません。

ちょっと待って。家族全員殺したあと、その家で普通に生活してたってこと?

その可能性があります。

逃げた方がよくない?

普通なら、そう考えますね。
4月4日、ようやく農場へ
数日間姿を見せない一家を不審に思い、近隣住民たちがヒンターカイフェックへ向かいます。
1922年4月4日午後。
納屋の中で、4人の遺体が発見されます。
さらに家の中から、マリアとヨーゼフ。
計6人。
全員が死亡していました。
警察が到着するまでに多くの人間が現場へ入り、遺体や周囲の物に触れたことも、その後の捜査を難しくしたとされています。
そして、もう一つ大きな問題がありました。
凶器が見つからない。
凶器は「翌年」見つかった
農場は事件後も残されましたが、翌1923年に取り壊されることになります。
その作業中。
建物の屋根裏部分の隠れた場所から、一つの農具が発見されました。
Reuthaue。
捜査側が凶器と考えた農具です。
しかも元従業員の証言などから、それはもともとヒンターカイフェック農場にあったものだと確認されています。
つまり犯人は、現場にあった道具で6人を殺し、その道具を建物内に隠した可能性が高い。
そして警察犬まで投入された初期捜索では、それを発見できなかった。
凶器は事件から約1年、殺人現場だった建物の中に残されていました。
金は残されていた
では目的は何だったのか。
強盗なら理解しやすい。
しかし農場からは、現金や貴重品が残された状態で発見されています。
一方で当時の捜査側は、紙幣が持ち去られた可能性などから強盗殺人も疑いました。
ここも、「金が残っていた=絶対に強盗ではない」とは言い切れません。
しかし少なくとも、目につく財産をすべて奪って逃げた典型的な強盗事件ではなかった。
犯人はなぜ一家全員を殺さなければならなかったのか。
その動機も分かりません。
100件を超える捜査
事件後、警察は大量の人間を調べました。
近隣住民。
行商人。
流れ者。
脱獄犯。
家族と関係のあった人物。
1922年から1930年までに、ミュンヘン警察だけでも100件を超える捜査手続きが行われたと、現在資料を保管するバイエルン州立公文書館は説明しています。
それでも、犯人を特定できませんでした。
容疑を向けられた人物は何人もいます。
しかし決定的な証拠はない。
そして時間だけが過ぎていきました。
本当に「潜んでいた」のか
ヒンターカイフェック事件について調べると、「犯人は事件前から屋根裏に住み着いていた」という説明をよく見かけます。
確かに、それを想像させる材料はあります。
農場へ向かう足跡。
なくなった鍵。
屋根裏の物音。
見覚えのない新聞。
そして事件後も農場に誰かがいた可能性。
全部を一本につなげれば、「何者かが事件前から家に潜み、一家を監視し、やがて全員を殺した」という非常に恐ろしい話になります。
しかし――
それが証明されたわけではありません。
足跡についても証言には揺れがある。
屋根裏の話にも後年加わった情報がある。
事件後の家畜の世話についても、細部まで完全に確定しているわけではない。
記録と伝説が、100年間で混ざっています。
それでも消えない一点
それらを取り除いても、この事件には奇妙な部分が残ります。
6人が殺された。
犯人は見つからなかった。
凶器は農場にあったものだった。
そして殺害から遺体発見まで、数日間の空白がある。
その間、農場では火が使われたという証言があり、家畜が放置されていたとは言い切れない状況があった。
犯人が事件後も農場に残ったのだとすれば、その人物は、納屋に4人、家の中に2人、計6人の遺体がある場所で、火を使い、食べ、家畜の世話をし、そして誰かが来る前に消えたことになります。

犯人が誰か分からないのも怖いけどさ。

はい。

殺したあとに、そこで何日か普通に過ごせる方が嫌だ。

私も、そこがこの記録の最も不気味な部分だと思います。
100年以上経った現在も
1922年。
6人が死亡。
1923年。
農場は取り壊されました。
その後も捜査は続きました。
多くの人物が疑われました。
しかし誰一人として、犯人だと立証されていません。
2026年には、バイエルン州立公文書館が保存されている警察資料をもとに、事件を扱った展示も開催されています。
事件から100年以上。
建物そのものは、もうありません。
犯人も、おそらく生きてはいません。
そして今後、新しい決定的証拠が見つかる可能性も高くはないでしょう。
だから最後に残るのは、あの夜、誰がヒンターカイフェックの納屋にいたのか。
そしてもう一つ。
殺害が終わったあと――
その人物は、いつ農場を出ていったのか。
という二つの問いです。

足跡が「入ってくる方しかなかった」って話から始まって……

はい。

最後まで、いつ出ていったのか分からないんだ。

それについて、確かな記録は残されていません。
出典・参考
- バイエルン州立公文書館(Generaldirektion der Staatlichen Archive Bayerns)所蔵のヒンターカイフェック事件関連資料・事件解説
- Hinterkaifeck.net ― 事件記録・時系列・史料アーカイブ
- Hinterkaifeck Wiki ― 当時の証言・捜査資料の整理
本記事では、当時の捜査資料などで確認できる事項と、後世に広まった説・証言に揺れがある事項を可能な限り区別して記載しています。ヒンターカイフェック事件は現在も犯人が確定していない未解決事件です。



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